カブな人 宮智 英之助 さん part1-1
2014年11月に、ホンダ青山ウェルカムプラザで開催されたカフェカブミーティング。そのバイクフォーラムで登場した宮智さんはC50のデザイナー。当時の様子をお話しされました
Profile
宮智 英之助 さん
1960年、本田技研工業に工業デザイナーとして入社し、多くのカブのほかダックスなどもデザイン。1996年退職。ちなみに自動車のN360をデザインされたのも宮智さん
C100が登場した時代、 大変にライバルが多かった
勝手ながら「カブな人」の一人目として選ばせていただいたのは、本田技研工業に5人目の工業デザイナーとして入社した宮智英之助さんです。N360にS800、ダックスやリトルホンダなど、さまざまな二輪・四輪のデザインを手がけた宮智さんが、スーパーカブ開発当時のことを話されました。 初代スーパーカブC100をデザインしたのは、宮智さんの先輩でもある故・木村讓三郎さんでした。社長の本田宗一郎さんが「手の内に入る、小さいものを」というコンセプトを掲げ、木村さんがデザイン。スカートの女性でも乗り降りしやすいことも重要視されていたため、開発陣の男性はスカートを履いてテストをしていたそうです。ただ、女性の手のサイズが小さかったことだけは気づかなかったとか。そんな試行錯誤の末、1958年に誕生したC100。爆発的に売れたとはいえ、ホンダは決して悠々自適に過ごしていたわけではなかったと宮智さん。 「当時はライバル車がたくさん出てきて、大部分は消えていったけれど、残った2~3社との競争はすごいものでした。その激しい戦いから抜け出すために、1966年にはついにデザインの変更が必要だということになりました。」
規制をクリアしながら モダンなテイストを取り込む
ライバルに打ち勝つための新しいデザインを任されたのが宮智さんでした。時代の変化で、ヘッドライトの明るさに規制が出てきたり、ライトの位置をもっと上にしてほしいという要望に応えることで、ハンドルとライトが一体化したデザインが生まれました。エンジンはOHVからOHCへ変わり、高性能に進化。 「C100は落ち着いた非常に良いデザインですから、そんなものを直すなんて無理なことです(苦笑)。やっぱり良く売れた商品のモデルチェンジというのは、どれも悩みますね。難しいです。」 悩みながらも、宮智さんはよりモダンなデザインへとチェンジさせました。もちろん、一発でモデルチェンジしたわけではなく、何度も作っては壊し、壊しては作りの繰り返しだったそう。 「自分がイイと思ってもおやじ(本田宗一郎さんの呼び名)がダメだと言う。その繰り返しですね。海外に輸出するための見直しでした。」 そうして完成したのが1966年に発売されたC50。宮智さんの想いが詰まった1台です。ちなみに、この後2回目のモデルチェンジ時は、日本だけでなく世界からの要望までもが複雑にホンダの耳に入った時代。競争はますます激しくなり、いつ抜かれてもおかしくない状況で、戦っていたのだそうです。
C100
C50
木村讓三郎さんのC100と宮智英之助さんのC50の大きな違いは…。ライトがハンドルと一体化したこと。それまではフロントフォークとライトがくっついていたのですね。また大きく明るいヘッドライトになりました。エンジンは開発していたOHCへと変更
Profile
宮智 英之助 さん
1960年、本田技研工業に工業デザイナーとして入社し、多くのカブのほかダックスなどもデザイン。1996年退職。ちなみに自動車のN360をデザインされたのも宮智さん
C100が登場した時代、 大変にライバルが多かった
勝手ながら「カブな人」の一人目として選ばせていただいたのは、本田技研工業に5人目の工業デザイナーとして入社した宮智英之助さんです。N360にS800、ダックスやリトルホンダなど、さまざまな二輪・四輪のデザインを手がけた宮智さんが、スーパーカブ開発当時のことを話されました。 初代スーパーカブC100をデザインしたのは、宮智さんの先輩でもある故・木村讓三郎さんでした。社長の本田宗一郎さんが「手の内に入る、小さいものを」というコンセプトを掲げ、木村さんがデザイン。スカートの女性でも乗り降りしやすいことも重要視されていたため、開発陣の男性はスカートを履いてテストをしていたそうです。ただ、女性の手のサイズが小さかったことだけは気づかなかったとか。そんな試行錯誤の末、1958年に誕生したC100。爆発的に売れたとはいえ、ホンダは決して悠々自適に過ごしていたわけではなかったと宮智さん。 「当時はライバル車がたくさん出てきて、大部分は消えていったけれど、残った2~3社との競争はすごいものでした。その激しい戦いから抜け出すために、1966年にはついにデザインの変更が必要だということになりました。」
規制をクリアしながら モダンなテイストを取り込む
ライバルに打ち勝つための新しいデザインを任されたのが宮智さんでした。時代の変化で、ヘッドライトの明るさに規制が出てきたり、ライトの位置をもっと上にしてほしいという要望に応えることで、ハンドルとライトが一体化したデザインが生まれました。エンジンはOHVからOHCへ変わり、高性能に進化。 「C100は落ち着いた非常に良いデザインですから、そんなものを直すなんて無理なことです(苦笑)。やっぱり良く売れた商品のモデルチェンジというのは、どれも悩みますね。難しいです。」 悩みながらも、宮智さんはよりモダンなデザインへとチェンジさせました。もちろん、一発でモデルチェンジしたわけではなく、何度も作っては壊し、壊しては作りの繰り返しだったそう。 「自分がイイと思ってもおやじ(本田宗一郎さんの呼び名)がダメだと言う。その繰り返しですね。海外に輸出するための見直しでした。」 そうして完成したのが1966年に発売されたC50。宮智さんの想いが詰まった1台です。ちなみに、この後2回目のモデルチェンジ時は、日本だけでなく世界からの要望までもが複雑にホンダの耳に入った時代。競争はますます激しくなり、いつ抜かれてもおかしくない状況で、戦っていたのだそうです。
C100
C50
木村讓三郎さんのC100と宮智英之助さんのC50の大きな違いは…。ライトがハンドルと一体化したこと。それまではフロントフォークとライトがくっついていたのですね。また大きく明るいヘッドライトになりました。エンジンは開発していたOHCへと変更
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